幽閉記録 秋田雨雀   よしあしのわかる時あらん     蜂しぐれ      ――雨雀          [#地から1字上げ]一九三三年、八月二十日(日)幽閉前日[#「一九三三年、八月二十日(日)幽閉前日」は太字]  ひるころ雨、かなりな雨になった。  ロード・マーレー(英)、ジャン・マルトウ(ベルギー)、ウァイアン・クチュリー(仏)、ジョン・トスバス (米)、ゼラルド・ハミルトン (英)、ジョージ・ホソピー(フランス)らがアンドレー・ルポン号で上海到着、宋慶齢女史に迎えられたと報じている。ことにウァイアン・クチュリーとはモスクワのどリニャーク家や「ゲルツユンの家」(文士クラブ)などで逢っているので彼の明るい顔、快活な子供らしい態度などがすぐに思い出された。私は事情がゆるされて、彼に逢う目のことなどまで、連想した。 夕方、M署のS刑事が訪ねて来たので二階に上げて雑談をしていると、Sは帰りしなに、 「本庁のSさんが、申請を吊いたいことがあるそうですから、明日九時ごろ署までいらしてくださいませんか。」といった。 「どんな用件ですか、また例の検束ですか?」 「いえ、そんなことはないようです。」 といって、S刑事は笑いながら帰って行った。  私はSの帰った後で、例のようにステッキを持って、どこというあてもなく散歩に出た。私は散歩の間も、ときどき、明日の呼出しの事件を想像したりしたが、屋外の新鮮な空気と、過度の血行は自分から不安を一掃してくれた。そして衆へ帰って来たころはほとんどそのことを忘れていた。娘たちは赤ん坊を間に挟んで安眠していた。孫の良一は小さな手を大の字なりに開いて、上唇が小さな富士山の形をして天井をのぞいていた。 [#地から1字上げ]八月二十一日(月)幽閉第一日[#「八月二十一日(月)幽閉第一日」は太字]  近ごろ自分は赤ん坊の声で朝起きの習慣がついていたので、八時ごろに眼を醒ました。日光がガラス戸からせまい書斎を襲撃していた。小さな塵埃が光線の中で盛んに舞踊をおどっていた。だが、自分は眼を開くと同時に今日の責任を思い出してちょっと不快な気持ちになった。  九時ごろ、私は妻と子供に対して、 「一寸M署へ行って来る。大抵すぐ帰れると思うが、帰って来ないでも心配しないでいい。何にも事件がないのだから。」といった。  妻と子供たちは不安そうな顔で、自分の顔を見ているのを感じながら、努めて冷静な態度で、 「もし、四、五日帰らないようだったら、岩波書店から批評を頼まれた国定教科書を手紙を添えて返えすように。」 と娘にいいつけて私は外へ出た。  朝から蟬がやかましく鳴いていた。黒と白の夏服でステッキをふりながらM署へ出頭した。I部長が特高室から下りて来て自分を叮嚀に迎えてくれた。署の人々は自分の方へ一せいに顔を向けたが、またすぐに自分の仕事の上に眼を持って行った。  特高室では刑事たちは申し合わせたように自分に挨拶をした。主任は自分に愛嬌ふりまきながら、ちょうどその時割ったばかりの西瓜を自分の前に出した。自分は幾らかの不安もあったが、それを紛らす気持と、幾つらかユーモラスな気持でその一片を受取って喰べた。O主任はいろいろな雑談を仕向けて来た。その間、私は四、五本のたばこをのんで時間をつぶした。  午後一時ころになって本庁のS警部がいそいで室に入って来た。O主任はSにも西瓜をすすめた。Sは日焼けのした額の汗を拭き、西瓜の一片を頬ばりながら自分の方を笑いがら見て、 「君だけ安全でいるので、少し恥かしいだろうと思ってやって来ましたよ。」 と、S警部は自分に皮肉を飛ばした。Sの皮肉は自分に対して、本質的には応えるところのないものではあるが、そうかといって、理解されないほど縁遠いものではなかった。なぜならば、近来進歩的文化運動着は、政治的進出という意味で、官憲の圧迫を受けているときであるからである。一言にしていえば、シンパ問題が進歩的な文化運動者の上に襲いかかっているときだったからである。   S警部は私を特高室の隣りの小さな調宝に呼んだ。Sは黒い大きな手提鞄の中からたくさんの写真を出して、その中から手際よく一枚を抜きとって私に示した。 「君はこの人を知っているでしょう?」  自分は全く事務的に撮影された小型の写真の上に眼を投げた。 「知っています。」 と私は答えた。 「私は今君を告訴しょうというような意思はない。しかし、事実は正直にいってもらわなければ困る。」 と前提して、私の取調べを開始した。Sの言葉は低かったが、明らかに人を裁判する人の声に変って来た。事件は想像したようにシンパ関係のものであった。自分はそのことに関して前に取調べを受けた人からもきいていたので、大体の当りはついていたが、事実としては全く記憶を逸した事柄であったので、その通り答えると、「二人の調書によれば、君は明らかにそれをおこなっている。」というのであった。自分たちの間に短い問答が交わされた。その結果つぎのような宣告が下された。 「とにかく、もう少し考えてもらいたい。そして真実のことを返事してもらいたい。僕は二、三日すればまた来るから。」  これがSと私とのこの日の最後の交渉であった。自分はこの日はすぐに留置されるものとは想像しなかったので、やや意外な感じがした。もちろん、自分としてはこのような場合の最悪のものを準備して来てはいたのだが。短い苦痛の感情は、ある他のものによって軽くされたように感じた。それは、今日の日本、ことに自分の周囲においては決して孤立したものではないという感情である。この二つの相反した感情は短い時間に烈しく闘った、そして私の感情は反抗心や、不満の代りに、多くの先行的な犠牲に対する謙遜さといったものとして居坐ることになった。(お前はこんな小さな災厄に対して、そんなに大袈裟に考えるのかと人はおかしく思うかも知れないが、事実はその通りであった。)  S警部の帰った後、主任は立って私のところへ来て、 「お気の毒ですが、着物を着かえて、手記を書いて下さい。K君、手記を書く紙をあげてくれたまえ。」 と主任は、私の方からK看守に眼を移した。私は家から届けてよこした浴衣の上にバンドをしめて、調室のテーブルの前に生徒のように坐らせられた。 「あなたは、あんまり原稿を書かないのでお嬢さんに叱られたそうだが、少し勉強して書いてください。」  K刑事がいったので、自分は笑った。この人は「婦人の友」を読んだらしく思われた。自分はしかしすぐ冷い感覚で笑いの感情をなくしてしまわなければならなかった。それは手記の最初の部分で、自分の生い立ちのことを記さなければならないからだった。そして、そこでは不幸な一生を終えた父の記憶がすぐ私の胸をついたからである。 [#地から1字上げ]八月二十二日(火)晴[#「八月二十二日(火)晴」は太字]  私の前に同房の人たちの姿がはっきり現われて来た。私にとっては幽閉生活は最初ではなかったが、今度の幽閉生活は幾らか長いかも知れないという予感があったので、朝の光線の差し込むのといっしょに、この共同生活に親しんで行こうと決心した。ちょうど田舎出の小僧が最初の都会での仕事を見習うような気持で、共同作業を教わろうと思った。仕事はどこでも行われるようなものではあったが、うすべりをめくって床板についた塵埃をはたく仕事、はたきをかけ、板の間や壁を拭く仕事が完全に分業的に行われて行くのは、自分には非常に嬉しかった。ここは他から強制されたコムミューン形態である。自分たちで掃除をした室の中に平等な権利で坐ることは、そのことだけを抜き放して考えると、得がたい喜びであった。七人ほどの共同生活者の顔が自分を見ていたような気がした。自分もあいさつをするような気持で皆の顔を見た。  外では私たちを監視する役人が、靴音をたてて廊下を歩いている。ときどきこの人の顔は網戸の近く寄って中を覗いて行く。錠前の音が人を威嚇するために響いている。  自分は午前中に特高室に呼び出されて、手記を書かされた。ここでペンを走らせるのは実に嬉しかった。たとえ小さな運動でも、手足を動かすことは愉快なのであろう。なおここでは私たちは煙草もゆるされているからでもあろう。私はこの日から毎日呼び出されて取調べを受けたり、手記を書いたりすることをこの上のない楽しみとした。私は特高室のKが入口の窓に立つのを恋人を待つ人のように待ち望んだ。 [#地から1字上げ]八月二十三日(水)晴[#「八月二十三日(水)晴」は太字]  共同生活者の顔は、だんだん、それぞれの特色をもって自分の眼に入るようになり、それと同時にその人たちの顔は白分に親しいものになって来た。最初醜いと思った顔も、醜いなりに魅力をもって写って来る。  自分の共同生活者――七人  H――思想  二十二歳  S――強盗  二十五歳  T――窃盗  二十七歳  O――詐欺  三十五歳  K――猥褻  二十五歳  其他。  この内、思想は最も長い滞在者で、もちろん、最も知識的であり、この共同体の指導者の役をつとめていた。強盗のような一見烈しい性格の持主のような男も、よく青年の指図を受けて働いていた。Hと同じような運命をになった人はこの共同体の中に四人ほどいた。白分もまた同房者として、共同生活の作業をHから教わった。「忍苦」ということも同時に示された。思想の人ばかりでなく、この共同体ではいかにして健康を維持して行くべきかということは大事な仕事の一つである。刑務所のように、ここでは運動の場所と時間が与えられていないので、人々は上体と下肢を絶えず運動させる工夫をしなければならない。長い共同生活者は、その工夫を十分に発見していた。ある人は禅の様式をとったり、ある人は静坐の形をしたり、またある人はいつでも駈足のときのような姿勢で腕を曲げて、相互にそれを前後に動かしたりしていた。自分は最初それを見てもう少しで吹き出すところであったが、そこにすでに社会人としての闘争があるのだと思ったら、自分のうわずった気持が恥かしくてたまらなかった。  自分はこの日、自分たちの房の反対のがわの第一保護室の中に中年の女のいるのに気がついた。四十四、五歳の中流階級(中産階級ではない)の女らしく、上品な顔だちをしていたが、耐え難い心労に血液を全部失ってしまったような蒼白な顔をして、どこか一点を凝視しているように思われた。私はこの娘の嫁入りの費用を得るためた、自分の家に放火した、という嫌疑を受けているものだ、ということを共同生活者に教わった。 [#地から1字上げ]八月二十四日(木)晴[#「八月二十四日(木)晴」は太字]  今日も特高室で手記を書いていると、進(娘の夫)が訪ねて来た。すぐ面会を許してくれた。私はちょっと胸の鼓動の烈しく打っているのを感じたが、自分は彼に健康でいることを示そうと努力した。それは自分の家族の者たちに語る最上の言葉だと思ったからである。  O主任は自分の席から、 「お父さんは家で原稿を書かないそうですから、ここで原稿を書いてもらっていますよ。なあに、あと二、三日で帰れますから心配しないでもいいです。」 と、関東なまりのある言葉でいった。  上田は浅黒い顔に皺を寄せながら金を差し入れて行った。 [#地から1字上げ]八月二十六日(土)晴[#「八月二十六日(土)晴」は太字]  空はよく晴れて海のようだ。自分たちの房の壁を射る光線は日時計の役を果していることを発見して、自分はHと長い間日影を見つめていた。自分は娘の幼いころ、バイロンの「シヨンの囚人」を訳読してやったことを思い出して、それをHに話してやった。もと文学書生であったHはそれにひどく興味を感じていた。  昨日自分たちの房の中に一人の侵入者があったが、この男のために六人の共同生活者は非常な不安に襲われた。男は猥褒罪で拘引された不良学生で、猛烈なひぜんかき[#「ひぜんかき」に傍点]であった。某大学生だと自称していたが、彼は中学生ほどの知識をも持ち合わせていなかった。彼は私たちの房へ入るなり、盛んにひぜん[#「ひぜん」に傍点]を掻きはじめたが、その度ごとに血膿の交わった皮が畳の上に一杯に飛び散った。Hは四、五枚の紙を与えて血膿や皮をそれでとるように命じたが、にやにやして一向それを実行しない。そこで房の人たちはこの男を隔離してもらうように看守に懸け合ったが、看守は「それではこの男を他の房へ入れろというのか?」という質問をしたので、Hはそれを否定して、房外においてくれといったが、それは前例がないという理由でしりぞけられた。 「結核患者だって房に入れてやっているじゃないか。それくらいのことは我慢しなくっちゃいけないよ。」 と看守は結論した。  しかし、この日の夕方、自分はこの房を出されて、隣の房に移された。自分だけはひぜん[#「ひぜん」に傍点]の危険から逃れえたが、同房者と別れるのはかなりつらかった。 [#地から1字上げ]八月二十八日(月)晴[#「八月二十八日(月)晴」は太字]  今日から共同体内の一口の生活の記録をつくって見よう。  朝――六時起床。  起床後の共同作業のことは前に簡単に記しておいた。房内での眠りは、時間の上からいえば、八時の就床、六時の起床だから十分なはずであるが、大てい不十分な睡眠しかとらないようである。しかし、朝の光を求める気持は、十分の睡眠のためではなく、寝飽きることの苦しさから来ているようだ。うすべりの上に毛布二枚敷いただけなので、はじめの一週間ほどは全身が痛んでどうしても安眠が出来ない。半醒半眠の状態をつづけているものには、朝の来るのは大きな喜びである。大きな不幸災厄に逢ったときでさえ、朝は喜びを持って来るのが通例である。  朝食――七時にはじまる。弁当も最初の内は咽喉を通らないのが普通であるが、一週間ほどを過すとその弁当は非常に待ち遠しいものになる。自分は青年期に芝居の初日に招待されて、そこで出される弁当をまずいなどと生意気をいったようなこともあるが、ここであてがわれる味噌汁づきの朝の弁当は決してまずいものではない。普通、弁当の飯(舎利《しゃり》という符牒言葉がついている)は茶碗に二杯半ほどの量があるが、自分などには十分だった。朝の弁当にはお汁のほかに漬物が二片ほどついている。自分は歯が悪いので固い大根には弱らされた。  昼食――にはお汁はつかない代りに何かおかず(タンボというそうだ)がつく。それから椀に一杯の湯が注がれる。自分には昼食が一番まずく思われた。夕飯には漬物のほかに魚あるいは焼豆腐の小さな一片か、こんにゃく数片がつく。自分はよほど貧乏性に生れたと見えて、焼豆腐は大変うまかった。魚は大てい鮪の血あいであったのには閉口した(鮪の刺身は明治の十五年ごろまでは下等なものとして普通の食膳にのぼらなかったものだと、ある先輩からきかされたことがあるが、血あいにいたっては、おそらく犬猫でもよろこんで食わないものであろう。その血あいを自分たちの唯一の魚としてお互いに配り合って(ある場合には争って)食った。  共同生活の化粧室――すなわち便所および洗面所は、異様な臭気を発するので驚かされた。大ていの便所は慣れるにしたがって臭気を感じないのが普通であるが、ここの便所だけは毎日その臭気の度を増して行くように感ぜられた。自分たちの共同体では、便所へは二時間置きに出されたが、ここに出されるのは共通に許された一つの散歩でもあった。便所へ行って、それから洗面所で顔を洗うのが、自分たちの一つの享楽でもあった。  自分はある時洗面所で顔を洗っていると、奇智に富んだ一人の看守が、 「おいおいお爺さん、君の髪は幾ら洗っても黒くはならないよ。」 といったので皆で吹き出したこしたことがある。  大便所から小さな白い姐虫が匍《は》い出して来て、前板の左右の壁を匍いのぼっては途中で落ちて来、落ちてはまたのぼって行く根気には驚かされる。柳に蛙を見て悟道に入った人はあるが、姐虫の根気を見て悟道に入ったのはおそらく自分だけであろう。  就床――は夜の八時で、室の古参者が第一保護室においてある毛布包みをとりに行く。その毛布の内の二枚だけを床に敷いて一枚をかけることになっている。この共同のベッドを作るために、房内は一時ざわざわする。そのときは一番解放された心持になるときである。この時だけは監視の看守も幾らか大目に見て低い雑談などをゆるしておく。人々は便所から一人一人かえり次第、毛布と毛布の間にくるまって行く。機械主義は到るところにあって、ここでも、ある看守は就寝前に雑談をしたというので留置人にビンタを喰わせたことがある。 [#地から1字上げ]八月三十一日(木)晴[#「八月三十一日(木)晴」は太字]  自分はここでは房の外の音の襲撃に弱らされた。この辺は三十年前までは森になっていて、その森を出たところの並木道には、廿酒屋などが出て肥料車を押した東京近郊の百姓の若衆や娘さんたちが汗を拭きながら甘酒をのんでいるという政歌的な情趣をよく見かけたものであった。自分たちの今いる房は、実にその桜の並木道のはじまる辺であった。房の外には厚いコンクリートの塀が立っていて、その外は、近ごろ工事を施したばかりのコンクリートの鋪装道路になっていた。この道路を過ぎて行くあらゆる音はコンクリートの塀に響いて、自分たちの房をその昔の中にこね廻してしまッていた。  ことに、就床後は一層この音に苦しめられた。遠い先方から走って来る自動車の音を迎えて、その音がだんだん大きくなって最高度に達して、またそれがだんだん弱まって全く消えてしまうまで自分たちの神経は活動をやめなかった。一つの音が行ってしまうと、またほかの音がやって来る。しかもその昔は右からも左からもやって来る。その音をきいていると、神経はますますいら立って針のように尖ってゆくのを感ずる。この雑多な音の送り迎えに、朝の五時頃から夜中の二時半頃までを費した。夜中の二時ごろになると、ようやく自動車の音は眠りこけてゆくように消えて、その後にはカタンコトンという肥料車の音が牧歌的な記憶を呼びおこしてくれる。自分はそのころはじめて浅い眠の中に入り込んで行った。この習慣はほとんど共同生活後までつづいた。  私は、新しい房、すなわち第三留置室と呼ばれているところでは、一人の思想と三人の窃盗と一人の天理教と一人の街の紳土といわれている大政治家と共同生活をした。一人の思想はやはり二十二、三歳で前の房のHとほとんどおなじような経歴を持っていた。街の紳士は、肥った腹をつき出して、両手をゆっくりふりながら調室へ呼ばれていたが、とうとう二十九日の拘留に処されてしまった。 「何もかもめっちゃくちゃじゃ!」 と街の紳士は歎息をもらしていた。 [#地から1字上げ]九月一日(金)晴[#「九月一日(金)晴」は太字]  房の外では蟬の声が烈しくしている。手記はすでに終えているのに、長い間取り調べを受けなければ調書をとりにも来ない。  不安がつのるばかりだ。何か自分のために不合理が行われているのではないかというような不満と疑いが起って来た。自分はそのような個人的な感情を社会性によって取りのぞこうとあせったが、あせればあせるほど感情が自分を襲うて来る。白分は封建主義的雰囲気の中に、襟首をつかんでほうりこまれたような感じがした。   よしあしのわかる時あらん蟬時雨 という駄句を口ずさんだ。この封建詩形は今の自分を自嘲するためには幾らか役立った。 [#地から1字上げ]九月二日(土)晴[#「九月二日(土)晴」は太字]  今日、「極東平和の友の会」が襲撃された。 [#地から1字上げ]九月六日(水)晴[#「九月六日(水)晴」は太字]  この日、午後八時ころ、自分が例のベッドにもぐって眠ろうとしていると、誰か網戸を軽く叩く者がある。自分は眼を開いてその方を見透すと、それはAという看守であった。 「君は文士だそうだが、巌谷小波という人を知っているかね。」 と、その人はいった。 「え、知っています。書いたものを読んでいるばかりでなく、若いときドイツ語を教わったこともあります。」 と自分が答えると、その人は、 「あの人は今日死んだよ。」 と教えてくれた。  自分のいる場所が場所だけに、この訃報は異様な響を伴って耳に入った。 「辞世の句があるよ。僕は勝手に読むから、君はそこで勝手にきいていたまえ。」 と、その人は読んでくれた。   極楽への乗物やこれ桐一葉  自分はこの看守に感謝した。  自分は、この夜巖谷小波さんのことや、それや、これやを考えて、夜中の二時ごろまで眠らなかった。自分はスバルイン教授が、巖谷さんの日本文化に対する功績を激賞したときのことを思い出した。日本の文壇は過去の遺産に対して正しい評価を与えていない。自分たちは巖谷さんとは全く世界観を異にしているものであるが、児童文学の開拓者としての業績によってうるところが多かった。  自分はあるとき、半生を児童文学のために費やそうと決心したことがあったが、今もなおその決意をすててはいない。いや、それどころではない。自分こそいい童話の作者にならなければならないという抱負さえ持っている。日本の子供たちのためにすぐれた童話を書こうとしている自分が、なぜこのようなところにおかれなければならないのかと思わざるをえなかった。 [#地から1字上げ]九月七日(木)晴[#「九月七日(木)晴」は太字]  共同体の役人のタイプについて。自分はある学者から、今日の刑務所制度はブルジョア的なものであるが、留置場は封建主義の残存形態だと教わったことがある。実にその通りである。自分は今日までの短い期間の経験からいっても、日本における留置場はもっとも改良の余地のあるものであって、したがって研究材料はほとんど無限といっていいほどである。留置場の臭気を分析をするだけでも、科学者には確かに学位論文を請求するだけの価値がある。 この封建残存制度による共同体の監視はどんな人々によってなされているであろう。自分たちの共同体には四人の役人がいて、二人ずつで一日交替であった。  A――四十歳くらい、全体が四角な感じを与える老警官、模範的な牢番タイプである。  I――三十七、八歳くらい、軍人上りで一種の二重人格者である。習慣的にビンタをくわせる。  A――三十二歳くらい、大阪商大中途退学スポーツマンで、快活な人である。  N――三十二歳くらい、日大卒業、文学青年で、留置場生活を取材とした長篇を執筆している。人道主義者である。  この四人の看守はめいめい異った性格を持っているが、大体において二つのタイプに分けることが出来る。AとIは封建主義的であり、保守的であり、AとIは警察的新人タイプで、今日の留置場制度には適しない人々であるが、一人はスポーツに慰安を求め、一人は文学の世界に逃れている。後の二人に共通したタイプは、今日の警察官の中にはかなり多いらしい。しかしその人たちの多数は大てい中途で方向を転換するということを私は友人からきかされたことがある。それをしなければ、今日の警察制度の中には住みえないものであるらしい。  この日、自分は特高室へ呼び出されて行くと、そこに自分の娘が赤ん坊を背負い差入れ物を持って立っていた。自分は極めて快活な態度をとって応対したが、かなりセンチメンタルな感じに襲われた。孫の良一は自分の顔を見忘れていた。娘は洗濯をした浴衣をおいて帰った。  外ではお祭の神輿をかつぎ廻る音がしている。ワッショイ! ワッショイ! 景気をツケロイ! ワッショイ! ワッショイ! ワッショイ!  つぎのような駄句が出来た。   日二十日ひげ三寸のびたり夏ごもり [#地から2字上げ]九月十日(日)晴[#「九月十日(日)晴」は太字]  今日上州の親元へ逃げかえるところをつかまったという十五になる小僧さんが隣の房で泣いていた。看守が叱るとますます泣き出した。昨日小僧の持って来た荷物の中に少年倶楽部など、少年雑誌の入れられているのを見た。そのとき、自分はその小僧の身だったらと、すぐ連想することができた。役人にはそれもできないらしい。  この三、四日、毎日子供が入って来るので、自分は自分のことのように心を痛めた。子供を留置場に入れることは絶対に避けなければならない。このことは機会があれば、現実的な問題として取りあげて行きたいと思う。かりに犯罪性のある子供でも絶対に入れてはいけない。それは、自分がここで発見した貴重な材料の一つだ。  昨日も保護室に入れられた五歳はどの子供が泣いて泣いて泣きやまないとき、隣の房のH君が、冗談まじりに「Aさんが子供が好きだからAさんにだましてもらったらいいでしょう。」と役人にいっているのをきいた。自分はこの言葉をきいて、決して不快には思わなかったが、実際はもっと重い感情に襲われていた。自分は看守の一人にソヴエートの児童保護のことを話して、「(人生案内)という映画は内務省か文部省で買いあげたはずだが、見たことはありませんか。」 と質ねると、看守は、 「そうかね、そんな立派なものなら見たいね。しかし君、何事も僕等のところへは来るもんじゃないよ。それではいけないとは思うんだがね。」 と、新人タイプのこの役人は、やや不平らしくいって、自分のテーブルの仕事に眼をむけた。  外はやはりお祭で賑かだ。解放されている子供らの愉快そうな声がしている。しかしその子供らもやがてその自由を失うときが来るかも知れない。いろいろな意味で。  街路に面した窓からひば[#「ひば」に傍点]の葉が廊下にうつって美しくおどっている。自分はいつ出られるかという見込みがつかない。子供のような絶望感に苦しめられた。   ひばの葉のかげは静かにうつれども      四角なるこの壁けふも出られず  そのままの心持を古い詩形にしてうたって見た。 [#地から1字上げ]九月十二日(火)晴[#「九月十二日(火)晴」は太字](少し涼しさを感ずる)  S警部は二階の調室で調書をとりなが、雑談の未、 「僕は君、ほとんど学校教育を受けていませんよ。僕はこれでアルバイターさ。」  この短い言葉の中に、この慓悍な一紳士がいかにしてブルジョア社会のために殊勲をたてて来たかを示している。 「身体はどうです。君にはお気の毒だけども、行為に対しての責任だけは持ってもらわなければ困る。君、殺された人まであるんだからね。」 と、Sは私の顔を見て少し笑いながらいった。 「殺された人まである。」という言葉は自分をちがった意味で強く打った。  Sは私の調書を読んだ。調書は自分にとっては不利には書かれていないので幾らか安心した。 「Aさん、S同盟を出るわけにはゆかないかな。もちろん、これは官吏としていうのではないが、君がS同盟にいると、また、今度のようなことが出来はしないかと思ってね。」  自分は、S同盟を出る必要はない、白分は同盟ではほとんど活動をしていない、しかし、創作家として同盟の活動を助けて行きたいと、思っている。そしてそのことは、四、五人の友人たちにも勧告されていることであるから、これからも創作活動に入りたいと思っている、という意味のことを答えた。 「そうですか、どうせ、君たちは転向などということはしないだろうけれども、声明書を一つ書いてくれませんか。」 とSはいった。 「デマの材料に使うんでしょう。」 と、自分は笑いながらいうと、 「いや、転向という言葉はあれは君新聞でこさえた言葉で、僕らには関係のないものです。Kは決してデマなんか飛ばしませんよ。」 と、Sは少ししゃがれた[#「しゃがれた」に傍点]声で笑った。  この日の午後、白分は若い歴史家のHが、特高室の取調べから留置場の方へ行くのを見た。自分はまた重いものを胸にのせられたような感じがした。 [#地から1字上げ]九月十三日(水)曇[#「九月十三日(水)曇」は太字]  朝早く、自分たちの共同作業を終えて坐ろうとしている瞬間、廊下の戸が開いて、そこに一人の小肥りのした紳士が現われた。見るとそれは弁護士団のP氏だった。 「どうしたんです?」 「弁護士団のことで、……」  この二言で自分たちの言葉は遮られてしまった。自分は静坐しながらF氏の事件をいろいろと想像して見た。 間もなく、自分は特高室のSに呼び出されて、広庭で写真を撮られた。十五、六人の若い警官が自分の前にずらりと立って見ていた。その内の一人はエロシェンコ君を知っていた。 「私は昔よく先生のお話をきいたことがあります。今はこんなことをしていますが。お大事になすってください。」とその人はいった。  警官写真師はあまりいい技術家ではなかった。二枚だけとって、ていねいにお辞儀をした。 「君は専門家ですか?」 「いえ、ただ、させられているだけです。」 と、いって笑っていた。  かえりしなに、S刑事は、 「お気の毒ですが、もう一つ事件もあるし、少しのびるかも知れませんね。しかし長いことはありませんよ。」 と教えてくれた。  自分はかなり失望を感じた。房に入ってから静坐をして見たが、心は少しも落ちつかなかった。理由のない延期に対して憤りを感じた。いろいろな思索でそれを和らげようとしたが、それはただ観念的なものとして止まった。夕食後食ごなしの静坐をしていると、自分の憤りに「社会性」の失われていることを見つけ出して、恥かしくなった。顔がほてって来て、少し発汗している。手ぬぐいで全身を摩擦した。すると感冒の癒りかけのときのような軽い気持になった。夜は比較的安眠した。 [#地から1字上げ]九月十四日(木)解放の日[#「九月十四日(木)解放の日」は太字]  日光がよく輝いていた。  今日Kに頼んでひげを当ろうと思った。  ひるころ、Kが戸の外で自分の名を呼んでいる。厚い房の戸が開かれて自分は外へ出された。暗い廊下を通って二階へ上りかけたとき、 「Kさん、今日ひげを当らせてくれませんか。」 というと、Kは、 「あなたは今日出されますよ。今お家から剃刀を取りよせますから。」 といった。  自分はKの言葉を信ずることが出来ないほど嬉しかった。Kの口から別な言葉が出やしないかと、問いかえすことさえ出来なかった。 「しかしまだ誰にもいわないようにしてください。」 とKはつけたした。  特高室では、まだ自分の出ることを知らなかった。主任は、 「長い間お気の毒でした。Aさんも落ちついて創作をしてください。さっぱりしていい気持になったでしょう。」 といった。  Kは私のために金盥《かなだらい》に湯を一杯に持って来てくれた。自分は家から届けられた西洋剃刀でひげを当ろうとしていると、主任のOはあわててそれをとめて、 「Aさんは始終それを使っていますか。随分錆びていますね。」 といった。 「いえ、僕は安全剃刀でやっています。どうしてこんなものをよこしたんでしょう。」 「そうでしょう。そんなもので咽喉でも切られたら大変です。安全をお貸ししましょう。」 といって、Iという部長の剃刀を貸してくれた。  自分はひげを当り、洋服を着て、調室に出かけた。すぐ近くのテーブルでは、若い電気技術家のI君が手記の筆を走らせていたが、自分のそこにいるのを見つけて、 「もう、お帰りですか?」 と、少し蒼ざめた顔を自分の方に向けて、ていねいにいった。 「え、身体を大事にしてください。君も一目も早く出るようにしてください。」  この言葉は、自分は幽閉生活者全部に伝えたい言葉であった。なぜならば、自分の釈放がいい渡されてから二度と房へ帰してくれなかったので、共同生活者に別れを告げることが出来なかったからである。私はテーブルに腰かけながら、あの暗い共同体の中にいる共同生活者のいろいろな顔、ことに長い間、光を求めて与えられないでいる若い二、三人の人々の顔を、もう一度自分の脳裡にしっかりと烙印しょうと努力した。 「この石の塀の蔭にお父さんたちがいたんだよ。ここに毎日二十人ほどの人間が白光を見ずに暮しているんだ。」 と、私は署を出てから、迎えに来た娘の千代子にいってきかせた。  外では九月の日光は金粉のように降りそそいでいた。(一九三三・一〇・二) [#地から1字上げ](昭和八年十一月) 底本     『現代日本文學大系32』筑摩書房         附録 幽閉記録(秋田雨雀) 発行年月日  昭和四十八年一月五日 初版第一刷発行 入力  伊藤時也